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馬鹿と貧乏と死の稽古④(2022.4)

先月号では、「馬鹿」の反対語である「悧巧」「理屈」「己惚れ」「虚栄心」などについて学びました。今月号では、さらにそれを深め、なぜ 「馬鹿」 の稽古が必要なのかを確認します。

先月号では、金剛さまが「馬鹿」の反対語として示され 「悧巧」「理屈」「己惚れ」「見栄」、 さらにそれらの根本にある「虚栄心」について、金剛さまのお言葉を参考に学びました。そして「悧巧」「理屈」「己惚れ」「見栄」などは、誰の心にもあり、それは苦労の原因となることを確認しました。 先月号に続いて今月号でも、「悧巧」「理屈」などが生み出す弊害に ついて学んでいきましょう。

「悧巧」は努力の天敵
人間には誰でも夢や理想があります。そうした夢や理想を叶えるために努力するのが人間です。 一方、自分自身を振り返って、至らない自分、未熟な自分を知った時、より良い自分になろうと努力する存在でもあります。

真っ当な方法や手段によって努力を重ね、成長を遂げ、実力を蓄え、実績を積むことは素晴らしいことです。本当の成功や幸福は、こうした努力の結果として恵まれるものだからです。

しかし「悧巧」な人や「理屈」の多い人は、楽をして成果を得たい人なので、理由をつけて努力を回避し、後回しや先送りにしがちです。「見栄」を張る人にとって、地道な努力はカッコ悪いことなので手を出しませんし、「己惚れる」人は、できている自分に努力は無用と考えるはずです。こうした人 たちは、揃って努力することがないので、人間的に成長を遂げることはありません。よって実力も実績もつくことはなく、本当の成功を遂げることはできないのです。

 

この様に「悧巧」「理屈」などは、人間とって欠かせない「努力」や「成長」を妨げる悪因となるのです。
 


小パンタカの努力
「努力」の大切さを教えてくれるお話があります。
お釈迦さまの弟子にパンタカという兄弟がいました。兄の大パンタカは優秀で、すぐに悟りを開い阿羅漢(聖者)になりました。でも弟の小パンタカは、どんなに短い経文も覚えられない愚鈍な人でした。兄や阿難尊者をはじめ、いろいろな人が教えてもダメでした。最後にお釈迦さまが、 小パンタカに布切れを渡し、「わたしは汚れを清める」 と唱えつつ、修行者の履物の塵を払うように命じられました。

それから来る日も来る日も、小パンタカは言われたことを実行し、そのうちにこの言葉を暗記し、心の塵の本質が分かり、やがて十六羅漢の一人となったそうです。

これはどんな愚鈍な人でも努力を続ければ、悟りを開けるというお話ですが、努力によって、 人間は無限に成長できるということを示したお話でもあります。

人間の可能性について金剛さまも 「人は他の生物及び動物と違い、精神、心の働きに依りて如何程まで進むか、無限ではありませんか」(『聖訓』 第一巻増補版24~256頁) とお示しになられています。人間を成長させ可能性を高めるのは努力です。よって人間の成長の要である努力を阻む「悧巧」「理屈」「見栄」などは、悪質な病気といえるでしょう。

さらに「悧巧」「理屈」などの人は、良好な人間関係を築くことができない人でもあります。 まず客観的に考えて、「悧巧」「理屈」「見栄」「己惚れ」など、自分をよく見せたがる人を好む人はいないでしょう。

またこういう人の傾向を金剛さまは、「悧巧のすることは同じ鋳型で必ず善良を斥くる、嫉妬慢心に燃えています」 (『ご聖訓』 第八巻27頁)と看破されていますが、「自分は優れている」と思う人は、他人を見下す傾向が強く、敬意をもって人を受け入れるよりも、欠点を 探す方に力を注ぎます。「同じ鋳型で善良を斥ける」という言葉の通り、何かとケチをつけて他人を引き下ろそうとするものです。

たとえば、若者を年下というだけで認めない年配者はその典型です。

 

人間の真実とは
さらに「悧巧」「理屈」などの最も大きな弊害は、この世界や人間の本当の姿や、その価値が理解できないというところにあります。

この世界は天神地祇太神の御心の現れです。 神の御心は愛と誠であり、それは大自然の法則となり、また恩恵となり、万物を育んでいます。 愛と誠で万物を育んでくださる神の願いは、万物が霊的な成長を遂げ、万物が共存共栄していくことです。

 

私たち人間は大自然の法則の下で、恩恵によって生かされている存在です。同時に私たちは神に通じる神心を持つ存在であり、神の願いである自己成長と共存共栄を築く使命をもった存在です。共存共栄の世界を築くために私たちは、万物に優れた知性や精神、能力などを与えられています。

とはいっても人間の「知性」は、「人智如何に開けたりと雖も宇宙の神秘に比すればなお九牛一毛にも足りない。而も此の人智たるや神慮によってわずかに開眼せられたものが其の片鱗を窺い得た結 果に外ならぬ」(『真行』6頁)ですし、その「精神」も自己中心的で、 「嘘つきで意地悪で自分免許に己惚れる人間は、善七どころか図太い悪七であります」(『ご聖訓』第八巻76頁)というように未熟なものです。


そうした私たちを成長させるために、神はさまざまな縁を与えてくださっています。生まれた環境や、 出会う人や出来事、天職などすべては、未熟な私たちを成長させ 共存共栄の世界を実現するために、与えられた試練であり、成長の糧です。こうした試練や糧が与えられるのは、私たち人間が神から愛され期待されている存在だからです。これがこの世界と私た ち人間という存在の真実の姿です。

 

 「人間の真実は、俐巧限りの理屈範囲で説明は出来ませぬ。理屈を離れ学問を離れた瀬戸際から、一歩上向かいて上り始めます。そしてこの人間の真実に眼醒めて生きてゆくのを解説と申します」 (『聖訓』 第八巻29頁)

この通り、神に生かされて生きている人間の真実は、「悧巧」「理屈」などでは理解できないものです。 私たちが「馬鹿」の稽古をしなければならない一番の理由がここにあります。

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