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金剛さまとの出会い(俗人時代⑤)

 

賃機の世界へ
 

英蔵は文明開化の東京から、 生まれ故郷の北本宿に戻ってきた。 しかし、そこにも新しい時代の胎動は確 実に存在した。 それが岡野家が取り組もうとしていた賃機業であった。

賃機は明治二十年代の初頭から 綿織物業界で盛んになった生産形態で、紡績会社や糸問屋から綿糸を 買って、それを農家に配って白木綿 を織らせ、集荷して問屋に卸すという仕事である。当時は国内の綿織物生産額が二倍以上に増加した時代であり、農家が金を使い始めた関係で現金収入を強く求めていたことから賃機という生産方法は各地に急速に広がってゆき、 業者は面白いほど儲けることができた。

 

岡野家の親戚である山崎家は、明 治の初め頃から織物業を行っていた 関係で積極的に賃機業に取り組んで おり、親戚の松岡家も同じだったが、岡野家は農閑期に限って行う形で出発した。 しかし、実際にやってみる と予想をはるかに超える収益があ り、二年目はより広く声をかけて取 り組もうとしていた矢先、 長男の新 三郎の近衛師団入隊が決まったので ある。だから、どうしても英蔵を呼 び戻す必要があった。 同時に、 牧太 郎は賃機を手広く行ってゆくように れば、いずれ分家する英蔵に任せようと考えたのである。牧太郎からの説明を聞いて、 英蔵は胸が弾んできた。この将来性のあ る仕事を自分に任せてもらえるのな ら、東京で育んだ夢を、より大きく 膨らませてゆくことができる。

岡野家に戻った英蔵が賃機の仕事 として先ず行ったのは、糸の配達で あった。 腰に大きな大福帳をぶら下 げ、糸の包みを背負って一軒一軒、 それを配ってゆく。 その姿はまるで大黒様のようであったと当時を知る 人々が語っているから、よほど目 立ったのであろう。 そして糸の受け 渡しが終わると、織り上がった白木 綿の集荷である。 英蔵は牧太郎につ いて歩きながら、織り上がった綿布 の品質の見定め方、値段のつけ方等 を一生懸命に身につけていった。 自 分の将来がかかっている仕事だけ に、 真剣である。 集荷が終わると山崎家に納品に行き、糸を仕入れて 帰った。賃機の仕事は正月を過ぎた頃から 急速に忙しくなる。 そして、 農作業 が本格的に始まる春の始めには予想 していた以上の利益が出た。

村の年中行事

春の到来と共に、 岡野家の本来の 仕事である農作業が始まり、 その節 々には村の誰もが楽しみにしている 年中行事がある。 英蔵は村の若衆組 に入り、 初めてそれに参加した。 村の少年たちは十五歳になると、紋付 ・兵児帯をもらう成人祝いをして、この若衆組に加わり、 初めて一人前 の男として承認されたのだが、英蔵 はその時に東京に出ていたため、 正 月に成人祝いをして若衆組への入会 を認められた。 そして七月の天満天 神社の夏祭の準備等には欠かさず参
加し、その作業の中で、 大人になっ たという実感が全身を駆けめぐった。

 

また英蔵の心に残ったのは四月に 行われる、オヒマチ お日待ち)で あった。これは村の見晴らしが利く 場所に集まって日の出を待ち、昇る 朝日を拝む行事である。 祖父の彦四 郎は朝日を拝むのを日課にしており、 すでに八十歳になっていたが、 オヒ マチにはどうしても行きたいと言っ た。 一人ではとても無理だと考えた 牧太郎は英蔵に一緒に行くように言 いつけ、 英蔵は彦四郎を背負って 村人たちが集まる小高い丘に向かっ た。 彦四郎は丘の上に着くと「あり がとうよ」と言って背中から下り、 じっと東の空を見つめていた。 大空 に明るい光が満ち渡ってゆくと、 東 の一点から太陽が姿を現し、 瞬間、 世界は光そのものになる。 その中で 彦四郎は長い祈りを続けた。 そして、ゆっくりと後に控えている英蔵の方 を振り返って言った。 「お天道様の御 恩を忘れるなよ。 お天道様は、わし らの いの ちの親様じゃからな」
 

こうして様々な年中行事に彩られた一年が過ぎ、 十月の半ばから再 び賃機の仕事が始まる。牧太郎は、この年には他の村にも勧誘の範囲を 広げてゆく方針で、 その時に英蔵が奉公時代に取引先を開発した経験が 役に立った そして二月の 。末には前年度に 倍す る成果が 上がっていた。

春の農繁期が過ぎ、一息ついた七 月初旬に、牧太郎は英蔵を富士講の 仲間で行く富士登山に誘った。富士 を目指す父親の姿に憧れを持ち続け てきた英蔵は二つ返事で、それを受 けた。 出発の朝、母や姉が夜なべを して作ってくれた純白の行を身に つけると、 全身が不思議なほどの高 揚感に包まれた。道中、数回の宿泊を重ねて上吉田に着き、宿坊に泊まって、 次の朝に富士浅間神社への参拝を終えると、いよいよ登山が始まる。 英蔵は初めての登山であったから「山に酔う」と言う経験をしながらもなんとか登頂し翌朝は御来光を拝んだ。眼下に広がる雲海の彼方から太陽が昇り、空も大地もめくるめく光に包まれてひとつになる-そのただ中で英蔵は魂の底からこみ上げる感動に全身を浸しつつ、ひたすらに祈りをささげた。

そうした中で、 その年の半ばに、 祖父の彦四郎と祖母のゆうが相継い で霊界入りした。 別れの前に彦四郎 は枕元に英蔵を呼び「人間、苦しい 時が勝負じゃ。 どんなに苦しかろ うと、あきらめてはいかん。 石にか じりついてもあきらめずに努力すれ ば、必ずいい日が巡って来る」との 言葉を遺した。
 

そうした中、牧太郎は新三郎の除隊に伴い、 岡野家が本格的に織物業 を行うことを決め、 新三郎と英蔵を 一年間、 山崎家に見習い奉公に出す ことにした。 新三郎は機織りの工場 経営と織の勉強をし、 英蔵は問 屋との取引を含めた賃機の一切を勉 強する。

そして一年が過ぎ、 岡野家は農業と共に本格的に織物業を 行うことになった。 しかし、 時岡 野家に味方をしなかった。

 

時代の荒波に直面して

 

明治三十四年になると手機から足 踏機、そして力織機へという動きが 急速に進み、もはや農閑期に手織り で賃機を行うという時代ではなくな ろうとしていた。 その中で英蔵は糸 問屋から少しでも安い綿糸を仕入れ ることと、四~五千反におよぶ綿布 を 少しでも高価に引き取っても らうことに必死の努力を続けた。 そして、年明けの明治三十五年に締結された 日英同盟に、 好況への希望を託した。 しかし、対ロシア戦争への警戒感か ら景気はますます悪くなり、 明治三 十五年から三十六年にかけての賃機 は赤字になってしまった。

継続か休止かという選択を迫られ た英蔵が思案の末に考えついたのは 綿布問屋を変えることであった。 そこで、 まだ新しい問屋をあたってみると、その中の一店が破格ともいえ る条件を出してきた。 窮地に追い詰 められていた英蔵は、 この問屋と取 り引きを始めることを決めた。 しか し、それは破綻へと繋がる道であっ た。 問屋は、それから間もなく計画 倒産をしたのである。 その報を受け、急遽、 英蔵は東京へ飛んだが、 店は もぬけの殻であった。 警察署に必要 事項の書類を出すと、 英蔵は悄然 として岡野家に戻った。 そして、 牧 太郎と相談して当面の手筈を整えた 後、激しい落胆の中で悔し涙をこぼ した。しかし、事はそれだけでは終わら なかった。 糸問屋には支払いの延期 を頼まなければならない。 英蔵は 平身低頭し、盆までには必ず代金を 支払うという証文を書いて、よう やくのことでそれを了承してもらった。

しかし番頭は、こういうことが あったからには、取り引きを止めさ せてもらうとの一点張りであった。 英蔵は一週間ほど後に受け取る予定になっている糸だけは、何とか工面 してもらいたいと必死に頼み込んだ が、 「店主さんと相談して、よく考え ておきましょう」 との返事しかもら えなかった。

受け取りを予定していた日に英蔵 は糸問屋が綿糸を送ってくれること を願いつつ桶川駅に向かった。 しか 綿糸は到着していなかった。“やっ ぱり駄目か。 英蔵は深い落胆の中で、 何とか当面使用する糸だけでも買い 付けようと東京に向かった。

――それから何日たっても英蔵は 家に帰って来なかった。以来、ニカ 月の間、 短い手紙が一通、届いたこ とを除いて、 英蔵の消息はとして 分からなかったのである。

 

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