金剛さまとの出会い(俗人時代④)
「東京での奉公と日清戦争」
文明開化の東京へ
明治二十七年の春三月、英蔵を奉公に出すことに決めた牧太郎は、東京の麻布十番にある伊勢金酒店という大きな酒屋に奉公口を見つけて来た。そして囲炉裏端に英蔵を呼び「学校は今年で終わりだ。四月からは東京の酒屋に奉公に出ろ」と言った。英蔵はそれを聞いて、すぐに心を決めた。学校への未練はあったが、文明開化の東京で仕事を身につけるのも悪くはない。 "いよいよ、わしも東京に出るか―” そう思うと、人生の新しい出発点に立つ者が感じる萌え立つような感覚が全身を駆けめぐった。
三月も終わろうとする頃、英蔵は新しい絣の着物を着て荷物の入った風呂敷包みを持ち、柳行李を背負った牧太郎と共に、東京に向けて出発した。家人たちは総出で門口まで見送り、きせは何度も同じ注意を繰り返した。祖父母はおぼつかない足取りで門の外まで出て「達者でな、気をつけてな」 と声をかけた。さすがの英蔵も、それを聞いて胸がつまったが、元気を装って手を振ると、もう後ろを振り返らず中山道を 桶川駅に向かって歩き始めた。
伊勢金酒店
英蔵が生まれて初めて乗った列車の窓から、次々と移り変わる風景に見とれているうちに、 上野駅に着いた。明治十六年に寛永寺の敷地に作られたこの駅は、東京の北の玄関口として賑わっており、 牧太郎にはぐれないようにするには骨が折れた。 二人は上野広小路にあるそば屋で食事をして、麻布の伊勢金酒店へ向かって歩き始めた。右手には上野の山の桜が咲き始めている。
万世橋を渡って東京の中心部へと歩を進めると、道には洋風のガス燈が立ち並び、鉄道馬車・人力車が、ひっきりなしに行き交っている。日本橋にさしかかるころには、あたりを見回す余裕が出てきた。日本橋川には様々な船が浮かび、橋の上からは東京の街並みが見渡せる。牧太郎は右前方の新緑の杜を指さして「あそこが天皇陛下がおられる宮城だ」と言い、皇居前に出ると、深々と頭を垂れた。英蔵もそれに倣いながら、初めて御真影を拝した日のことを思い浮かべて胸をあつくした。
気がつくと日は西に傾き始めている。「少し急ごう」 牧太郎はそう言うと、 足を速めて歩き出した。 増上寺を過ぎてしばらく行くと、広い庭園を持った洋館が建ち並ぶ麻布区にさしかかった。 この一帯は東京でも屈指の高級住宅街である。その静かな街並みをぬけると、賑やかな通りが現れた。 山の手では最大の繁華街、麻布十番である。 風格のある土蔵造りの商店が並ぶ、その中の一軒を指さして、牧太郎は「あれが、お前が奉公する伊勢金酒店だ」と言った。それは間口が五間以上もある大きな店で、店内には四斗樽が整然と積み上げられている。牧太郎が来意を
告げると奥から店主が出て来て、英蔵を見るなり「いい面構えをしている。仕込めば、立派な商人になるでしょう」と言った。そして英蔵の荷物の整理が終わると牧太郎は「がんばるんだぞ」と言い置いて、夕闇の迫る道を帰って行った。
「あばてい魂」の発揮
店が閉まり、夕食の時間になると店主は英蔵を連れて台所へ行き、番頭や手代、小僧たちに紹介して、一人の手代に「明日から、お前が仕事を教えてやれ」と言いつけた。
次の朝から小僧としての仕事が始まった。まだ暗いうちから起きて店の掃除をし、朝食が終わると酒樽や油樽の扱い方を一つひとつ教わる。しかし、仕事の中でのことだから自然とぶっきらぼうな教え方になり、まごまごしていようものなら、すぐさま怒鳴り声かビンタが飛んでくる。だから小僧の誰もがそうであったように、英蔵も初めの頃は、夜になると布団の中で声を押し殺して泣いた。
しかし、それは僅かな間のことで、持ち前の負けん気がむくむくと頭をもたげ、あばていと呼ばれたエネルギーを総て仕事に注いで、 英蔵は、わき目も振らずに働いた。特に小僧の仕事の中心である品物の配達では、一度連れて行ってもらった道は確実に覚え、荷車を曳く技術も、すぐにそのコツを身につけた。
次は御用聞きの仕事が待っていた。 特に伊勢金酒店は高級住宅街を控えた商店街にあるため、お屋敷をまわって注文を取ることが多く、御用聞きは重要な仕事だった。また、商品についての質問や相談にも受け答えができるようになっていなければならない。英蔵は、この仕事も驚くほどの早さで身につけ、やがて、お屋敷の女中たちの相談に乗ることができるようになり、注文の量は次第に多くなって、 店主からは何度も誉め言葉をもらった。
力比べ
更に英蔵の評価を高めたのが、暇ができた時に小僧たちが競い合う力比べであった。当時、酒屋に奉公する者は四斗樽を三つ重ねることができれば一人前と言われており、これまでに成功した者は年上の小僧たちの中でも数少なかった。しかし、 英蔵は初めての挑戦で、見事にそれをやってのけ、見ていた小僧たちは思わず感嘆の声を上げた。こうして、英蔵は次第に小僧たちの中心的な存在になっていった。
ちょうどその頃、 すなわち明治二十七年の八月、日本が初めて経験する外国との大きな戦争である 日清戦争が始まり、当初の予想をくつがえして日本軍は連戦連勝の勢いであった。英蔵の周辺でも戦争への関心は日増しに高まり、それは生方敏郎が「明治大正見聞史」に「大人も子供も老人も女も、明けても暮れても戦争のことばかり談し合った。町内のバカ者、天保銭といふ名で通るような男でさえも、マジメな顔で戦争の話をした」と書いている通りの状況であった。特に、開戦から一ヵ月後に陸軍が平壌で清国の主力部隊を破った時の町の騒ぎは大変なもので、明治二十七年の後半は日清戦争の勝利一色に塗り上げられ、それは翌年の三月まで続いた。
そして四月に入り、日清講和条約が調印されて遼東半島・ 台湾等の日本への割譲と銀二億両の賠償金が支払われるという内容が報じられると、国民は歓呼の声を上げた。 ところがロシア・フランス・ドイツの三国干渉により遼東半島の清国への返還が決まると「小学生でも先生やお父さんと一緒に成って、泣くほどまでに遼東還付を口惜しがった」と書かれている通りの状況が生まれた。 そして、政府も新聞や雑誌も、こぞって「臥薪嘗胆」の必要を説き始め、その中で英蔵は「わしは、お国のために働き、役立つ商人になってみせる」 と自分自身に強く言い聞かせた。
突然の帰郷
夏が過ぎ秋が深まってゆく中で、一心に仕事に打ち込んでいる英蔵に、牧太郎からの手紙が届いた。読んでみると「兄の新三郎が徴兵検査に合格し、東京の近衛歩兵第三連隊に入隊することになった。ついては、働き手が足りなくなるので奉公をやめて帰郷してほしい。店主さんには自分が上京してお願いする」と記されていた。予想だにしなかった事態に、英蔵は衝撃を受けた。今ここで北本宿に帰れば、これまでの努力も立派な商人になるという夢も水泡に帰する。「親父は勝手だ。わしは帰りたくない」英蔵は腹の底からしぼり出すように、そうひとりごちた。
それから間もなく、牧太郎が上京して来た。そして帰郷を拒絶する英藏に対して今、岡野家では賃機という新しい事業を始めようとしている。これは奉公人には任せることのできない仕事だ。新三郎は、お国のために近衛師団に入隊した。お前は岡野家のために帰ってくれ、と言い 「頼む」と頭を下げた。子に対して、そのようなことは絶対にするはずもない牧太郎であったから英蔵は胸を衝かれ「分かりました」と言うしかなかった。そして帰郷を決意したことを店主に告げ、牧太郎に伝えられた 「また東京へ出ることになったら、ぜひうちの店に来させてください。 英蔵さんは間違いなく立派な商人になります」との言葉を何よりの餞として聞き、一年九ヵ月余の奉公の時を終えて東京を後にした。