馬鹿と貧乏と死の稽古③(2022.3)
故 岸田英山氏(解脱会元教統)は、「馬鹿と貧乏と死の稽古」を聞いた時、「『自分は偉くなりたい。バカにされたくない。貧乏をしたくない。ケガや病気をしたくない』と考えていたが、その価値観が変わった」といった趣旨のことを述べられています。確かに、馬鹿も貧乏も死も、誰でもそういう状態になりたくないことです。しかしあえてそういうマイナスの状態になる必要がある理由として、こんな逸話があります。
艱難汝を玉にす
野村證券の三代目社長を務めた奥村綱雄氏は若かりし頃、実業界の重鎮の松永安左ェ門氏に面談した際、自社の存在を松永氏に認知してもらおうと、天下国家に対する自説を滔々と述べたそうです。それに対して松永氏は、「奥村君、せっかくの懸河の弁も、歯が浮いて聞いちゃおられない。いいか、これから、わしのいうことを心耳に徹して聞け。実業人が実業人として完成するためには、三つのことを経験しなければならない。その一は、長い浪人生活だ。その二は、長い闘病生活だ。その三は、長い投獄生活だ。その三つとも経験して、それを克服しておれば、これは大した人物だが、少なくとも、この三つのうち一つくらいは通らないと、実業家のはしくれにも入れない」と諭したそうです。
松永氏が挙げた三つはどれも人生においては、失意のどん底といってもよい状態の時です。社会的信用、肩書き、さらに知人や友人から家族などの人間関係をも失くすような事態です。
でもそうした失望を味わう長い時間が、その人の心に働きかけ、今まで気づかなかったこの世を動かす原理原則や大局を見る視点、さらにはやるべきことを貫く胆力を培わせるのです。
金剛さまのご生涯も、大病や長い放浪生活など苦難や逆境の多いものでした。「艱難汝を玉にす(かんなんなんじをたまにす)」といいますが、数多くの試練が金剛さまのご人格を磨き高めたことは間違いないでしょう。しかしながらごく平凡な生活をしている私たちが、松永氏の指摘するような苦境に陥ることは中々ありません。そこで、自分自身で意図的に苦しい状況を設定して、自分の心を磨いていく修行をすることが、「馬鹿と貧乏と死の稽古」を実践する狙いであると思われます。
※心耳(しんに)=心の耳。心で聞き取る事。心でみのみのない話しぶりのこと
※懸河の弁=勢いよく、よどみのない話しぶりのこと
「馬鹿」と「悧巧」
『ご聖訓』等には「馬鹿」について多くの記述があります。たとえば『ご聖訓』第八巻「解脱講義 第二十講」には「馬鹿か俐巧か」としてまとめられた文章が掲載され ていますが、明確かつ簡単に「こうだ」と示されたものはありません。
しかし馬鹿の反対語(対義語)として、「悧巧」「己惚れ(自惚れ)」「理屈」「過信」「慢心」「見栄」「ぶる」などを挙げて詳しく説明されています。
たとえば「悧巧」とは、「つまらぬ装飾品」「人知れず技術と小細工が入用」「随分肩の凝る」「永続きせずに何時か尻尾が出る」「同じ鋳型で善良を斥ける」「嫉妬優心に燃 えている」「悪どいやり口」「こすずるい仕打ちをする」とあり、「悧巧と理屈は畢竟己惚れの副産物」と締めくくられています。
また「理屈」については、その前に「余計な」「つまらぬ」「くだらぬ」「野暮な」「馬鹿げた」といった形容詞をつけられた上で、「理屈が第一歩の邪魔者」「くだらぬ理屈 は兎角勇気と情熱を打ち消すもので、断じて禁物」と全否定されています。
さらに「己れ」についても「偉い人間のように独り合点する変態性」「最早人間も下り坂」「義理も人情も顧みず」「雲助根性」「人生の行き詰まり」「お陰や有難さを心得ぬ人間の踏み外す昭し穴」と列挙され、「己れの元は虚栄心である」と教えられています。 これらのお言葉から、「例巧」「理屈」「己惚れ」のいずれもが、人格的な欠点であり、本来であれば不必要な苦労を背負い込むものということなどが分かります。そしてその根本にあるのが、「自分を実際よりもよく見せよう」とする虚栄心です。
※雲助根性=人の悩みにつけ込んで全品などをゆすろうとする下劣な心
誰にでもある虚栄心
虚栄心は誰にでもあります。たとえば『こ聖訓』には左のような話が載っています。
「世の中には酒の代わりに酒の糟を食い、酔うた振りして見栄を張り、うっかり知人に白状してしまい、再び出遇った際、今日こそ本当の酒だと主張し、そこで冷やか、 燗(かん)かを問われると、又もうっかりロ走りて焼いて飲んだと返答し、虚栄というものは、こうも人知ら ず苦労するものです。
酒を焼くとは滑稽至極ですが、三度目に逢うた時は最も慎重に、今日は熱燗で気持よくやったと、うまく言ったまではよかったが、皮肉な知人から熱燗でお銚子何本やったかと突き込まれるや、うろたえて指を二本を出して、その分量は二枚だと、又もしくじって酒の糟二枚の手品の種明しをしてしまった」(『ご聖訓』第八巻 3頁)
このお話は落語の『酒の粕』をもとにしたものですが、人はこうした見栄をつい張ってしまうもの です。人間の社会は人物の見本市みたいなもので、待遇や対応は、その人に対する評価によって高下するものです。実際に報酬や利益も評価によって雲泥の差が生じることもあり、より高い評価を得たいという願望は誰の中にもあるものです。
また、何よりも自尊心が高い人にとっては、他人から見下されたり、軽く見られることは我慢がならないことでしょう。
一方、見栄を張ることはこのお話のように余計な苦労を重ねることでもあります。なぜならば一度、見栄を張れば、それを記憶し続けなければなりませんし、「ばれるん じゃないか」という気苦労も尽きません。またどんなに上手に飾ってみても、周りの人には、「この人、見栄を張っているな」と感づかれてしまうこともよくあることだか らです。「例巧で苦労する世渡り」(『ご聖訓』第八巻 5頁)と金剛さまはご指摘されていますが、「悧巧」や「見栄」は苦労だらけの生き方です。