馬鹿と貧乏と死の稽古⑤(2022.5)
今月号は、「悧巧」「理屈」などが咄嗟の時に 出る理由を確認し、続いて 「馬鹿の稽古」を実 践する上での大前提や基本姿勢、また陥りやす い間違いなどについて学びます。
「悧巧」「理屈」「見栄」 「己惚れ」 などがすぐに出てしまうの は、先祖代々の精神伝統であり、 私たちが日々、そうしたことを繰 り返しているからです。 精神伝統 ができる過程を、金剛さまは次の ようにご指導されています。
「思ったことは種になり、言った ことも種になるんだよ。 自分の日 ごろ心に描いたこと、言ったこと は因となり、時間がかかって果と なる。無意識の中に想い、無意識 におしゃべりしたことが悪果を作 る」 (『尊者の贈り物』193頁)
「人間は学んだものだけが役に立 つのだ。 先祖代々学んだこと、し てきたこと、身についたもの、い わゆる熟練しているものだけがで きるのだよ。 人に言われたら怒るのも、妬むのも、あせるのも皆、 熟練しているからだよ。 熟練して いれば習わなくてもできるのだよ。 ほんとうに熟練しているものだけ が、咄嗟に出てくるのだから大し たものだよ。 解脱精神も咄嗟に、 出てくるようになるのには、 三代 かけて四代目あたりからだろうな」 (『尊者の贈り物』 109頁)
「私の心は表に現れ、言葉に行動 に、体の表現となります」(『聖訓』第一巻増補版 15頁)
これらのご指導とお言葉から、 精神伝統が作られていく道筋は次 の通りです。
私たちの思うこと(物の見方・考え方)は、言葉や行動、態度と なり、それは日常生活で繰り返さ れる中で熟練され、無意識のうちに咄嗟の時にすぐ出てくるのです。
「習い 性となる(習慣は、つい にはその人の生ま れつきの性質のようになる)」とい いますが、 それは自分の性格形成だけにとどま らず、その家代々で繰り返される 中で、 生まれながらのそうした (傾向) を持つ人が育つようになり ます。 この生まれながらの癖を、 解脱会ではその家の家庭伝統( 伝統的精神)、または因縁と呼んでい ます。
家庭伝統には良いものも悪いも のもあります。 解脱の教えの大き な目標の一つは、悪い家庭伝統を 切り替えていく 「心直し」 ですが、 それはまず物の見方・考え方を改 め、それが身に付くまで日常生活 の中で実践する必要があります。
今回の「馬鹿の稽古」 であれば、自分の中に存在する「悧巧」「理屈」 「見栄」 「己惚れ」などの要素を認 識し、日常の中で、後述する「馬 鹿の稽古」の前提に基づいて、物 の見方・考え方や言葉や行動を改 め、 身に付くまで実践することで す。これは「馬鹿の稽古」のみな らず、後に学ぶ 「貧乏の稽古」 「死 の稽古」にも当てはまる道筋です。自己成長と共存共栄「馬鹿の稽古」の大前提は、どの ような「馬鹿の稽古」 でも、その 目指すところが「自己成長」「共存 共栄」 につながるものであること、 また「感謝報恩」であることが挙 げられます。 この三つが大前提で あることの理由は、先月号で述べた通りです。
また「馬鹿の稽古」を実践する 場所は、家庭や学校、職場など日 常生活すべてが実践の場所となり ます。 中でも特に大切な事柄が「仕 事 (天職)」と「人間関係」です。
「仕事」は、お金を稼ぐための仕 事だけではなく、家事や育児など 働くことすべてが含まれます。 ま た人間関係には夫婦、親子、家族 の関係も含まれます。
続いて「馬鹿の稽古」で陥りや すい間違いを並べます。
まず第一に、「馬鹿の稽古」は「頭 を使わないこと」「思考しないこと」ではありません。
「思案は解脱への橋渡しであり、 一寸の思案は二寸の無分別を一寸 に縮めて、残り一寸を解脱精神に するだけの働きがあります」 (『ご 聖訓』 第八巻 88頁) とあるように、 金剛さまは常に考えることを大切 にされた方です。 たとえば身近に いた先覚者の思い出を読むと、何 も考えない人は、「脳ルス野郎」と叱られたといいます。
一方、昔から「提灯頭を使うな」 というご指導がありますが、これ は、「考えるな」 ということではなく、「小人、閑居して不善をなす (つまらない人物は、暇ができると 悪いことをしがちである)」とか 「下手の考え休むに似たり」と同 じような趣旨の言葉であると拝察 されます。むしろ自分自身の「悧巧ぶる」性質を反省し、それを直 すために「どういう馬鹿の稽古を すればいいのか」「実践できている か」といったことなど、思案する ことは山ほどあります。
次に、「馬鹿」になるということ は「感情を動かさないこと」「感 情を捨てろ」ということではあり ません。 たとえば、私たちを生かしてくださる恩恵や神の愛や誠は、 目の前の現実の奥にあるものを受 け取る感性がなければ実感するこ とはできません。次のようなお言葉があります。 「一体人間は涙の味と価値を知ら ねば、本当に解脱の味と価値は判 りませぬ」 (『聖訓』 第八巻 89頁) 「一口に申せば涙は解脱の細胞で あり、嬉しい涙 悲しい涙の出な い限り、本当に解脱の有難さは判 りませぬ」 (『聖訓』 第八巻 90頁)金剛さまは、 涙を 「神の使者」 と呼ばれ、『聖訓』には「涙」 「涙の味」という言葉が繰り返し登 場します。 これは涙に代表される 感性の豊かさが学びに不可欠だか らです。 「馬鹿の稽古」にも豊かな 感性は必要で、豊かな感性あってこそ「馬鹿の稽古」は奥深いものとなるはずです。
「馬鹿の稽古」の目的は、「自己成長」「共存共栄」 「感謝報恩」なので、「馬鹿の稽古」には、「他者を愛す る」「思いやり」がなければいけません。同じように目的や姿勢に合 わせると、「馬鹿の稽古」の内容は、 自分や他人のためになること、 成 長に寄与するものであることが大 事です。他者を犠牲にするのはもってのほかですが、自虐的なことも 禁物です。
「馬鹿の稽古」を実践する際の根 本的な姿勢は、次の 『聖訓』で 明らかです。
「心を高く身を低くとは予の始終 諸君に注意するところである、 馬 鹿になるのは俐巧になる前提であり、 悧巧ぶるのはすでに馬鹿になっ た証拠であるのだ」(『聖訓』 第三巻 68頁)
理想や志は高く、実践する姿勢 や態度は、ひたむきで謙虚であることです。