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金剛さまとの出会い(俗人時代⑦)

死の決意と再起への遠い道

脱税事件

英蔵が起こした脱税事件は、 織物 消費税を払わずに綿布を問屋に卸 したというものである。 この織物消 費税は、 本来なら戦争が終わると同 時に廃止されるべき日露戦争下の非 常特別税が、政府の方針で終戦後も 継続されたものであり、財界はこれ に対する激しい反対運動を繰り広げ た。 英蔵はこうした事実を基に自分 たちがどのくらい追い詰められていたかを、必死の思いで訴えた。幸い、 取調官は話をよく聞いてくれ、 裁判 ではこうした情状酌量される場合 もあるから精一杯の申し開きをした らどうかと言ってくれた。 そして、 すべての取り調べが終わると家に帰 ることが許された。

秋が深まった頃、 裁判を十二月 十一日に開始するから出頭するようにとの通達が届いた。 英蔵は裁判が 始まる前に、少しでも岡野家に累を 及ぼさないようにしたいと考え、牧太郎に分家することを願い出た。 牧 太郎はそれを許し、 英蔵は本籍を鴻 巣に移した。

しかし、判決が早く出てほしいと いう英蔵の望みに反して、裁判は判 事の都合により延期となり、ようや く二月の中旬になって裁判再開の通 知があり、 判決は四月七日に言い渡 されることに決まった。 判決が出て 有罪となり、収監される事態になっ たら、絶望的である。”わしも堕ち るところまで堕ちた"その思いの中 で死ということが胸に浮かんだ。曾 祖父の“自分の代に失ったものを元 に戻せなかったことは、 ご先祖さま に対して、誠に申し訳ない。だが、 わしは死んだ後も魂となってこの家 を守る”との遺言が、心に響く。

ひいおじいさんと同じように、 わ しも死んで魂となり、 岡野家のため に尽くす” 英蔵は腹の底からそう心に決めた。

 

死の決意

鴻巣の家に戻り、整理が終わった 三月四日に英蔵は最も親しい親戚の 大島家を訪ね、それから岡野家に足 を運んだ。 牧太郎をはじめ家族たち は温かく迎えてくれ、 英蔵は皆が寝 静まった後に仏壇の前で自分の不孝 を心の底から詫びた。 そして翌朝、岡野家を辞去して家に戻ると三通の手紙を書いた。

死の決意の手紙である。

先ず両親に宛てたものから書き始 めた。「一筆終生の心まま これまで ひとかたならずかげになりひなたになりて生の身については実に心配な し下され、この上なき御厚恩を蒙り、 ありがたき御思召は決して忘れはい たしません」との書き出しで始まる 手紙は「ああ、思い考えればこれま では皆ゆめでした。 これまで生も二 十九年間、日に月に心配ばかり相かけ、何とも申し訳これ無く候。 まだ 妻子なき身一つの小生は好時期で す。これまでの損害は家内中の費用との御言の時は嬉しく、もはやこの 世に思い置く事更々なく、筆とめい たします」と結ばれていた。

続いて英蔵は最も心を許し合って いた弟の角太郎宛の手紙を書いた。

「生は当年二十九歳を一期として、 両親兄弟姉妹に先立ちす不幸の罪、そこもとに多罪す」との文章に始まる 長い手紙は「心が乱れて筆もまわら ぬ。 また出発先にて最後は通知つか まつるべく候なり」と結ばれ、涙が 点々と手紙の文字を濡らしている。

 

三通目は親戚の中で一番親しくし ていた大島定次郎に宛てたものであ った。その手紙は「今、生の身を考 えれば、如何せん兵つきだんがんつ き。いかに残念なればとて敵国のほ りょとならん。いかにこの時期なれ ばとて敵のほりょとならん。 筆が乱れて読悪しき、御推知相なりたく候 なり。 日本魂」と結ばれている。

英蔵は三通を書き終えると、 それ 白い封筒に入れ机の上に置いた。 後は立派に死ぬだけである。手紙を 書いている間は揺れ動いていた心も 鎮まり、もう何も思い残すことはないという心境だった。

どのくらい時間がたっただろう か。 玄関で声がした。 「英蔵、いる か。 上がるぞ」驚いて振り向くと、 牧太郎が入ってきた。 そして、机の 上の「御親父母様」と宛名書きがし てある封筒を取り上げ、 手紙の最初 の部分に目を走らせるやいなや「馬 鹿者!」と怒鳴り、 英蔵の顔を思い 切り殴りつけた――牧太郎が鴻巣の 家に来たのは偶然ではなかった。 前 夜の訪問時に普通ならざるものを感 じた大島定次郎が岡野家を訪ね、そ のことを牧太郎に話し、同様の違和 感を覚えていた牧太郎はともかく 鴻巣へ行ってみよう”と馬を用意し 英蔵の家へと急いだのである。 「英蔵、よく聞け」

 

牧太郎は腹の底から絞り出すよう に言った。

「人間、死のうと思えば、いつでも死ぬことはできる。 しかし、その前 になぜ死んだ気で生きるということ を考えんのだ。 死ぬ気でやれば、 こ んな失敗なんぞ、いくらでも取り返 せるんだぞ」

間違っていた、英蔵は心の底から、 そう思った。“わしは逃げていた。 い ろいろと理由を並べてはみたが、 本 当は苦しさに耐えられず逃げていた んだ" 涙が流れ、 くいしばった歯の 間から嗚咽がもれた。 牧太郎は、そ の肩に手を置き、黙ってうなずいて いた。

 

再起への遠い道

四月七日に判決が言い渡された。 非常特別税法違反で、 六百二十二円五銭の罰金刑であった。これに対して弁護士は控訴すべきだと言い、 英 蔵はそれに従った。しかし、六月九 日に出た判決は「本件控訴ハ之ヲ棄却ス」というものであり、ここに刑 が確定した。具体的には十五年間の分納という形で、英蔵の手紙には 「一日に十一銭ばかりの割合ゆえ、何 のくもなく分納方法はできる考えに ござ候あいだ、 御安心下されたく」 と記されている。 確かに、この当 時は日雇人夫でも日給三十銭前後、 一ヵ月で九円ほどになり、月々三円 三十銭を分納するのは容易だと思わ れた。東京に出て頑張れば、この失 敗を取り戻す道が開ける――そう確 信して英蔵は上京して行った。しか し、当時の東京は明治時代最大の不況の嵐が吹き荒れていた。 既に前年 の十月には「戊申詔書」が発布され、 天皇陛下の御威光によって、節約と 勤労を呼びかける以外に打つ手が ないほどに経済状態は悪化してい たのである。しかし失敗を早く取り 戻したいという意識が先行していた英蔵は、世相をじっくりと観察する余裕が持てず、その焦りが彼の眼を曇らせていた。だから、 岡野家から借金を繰り返しながら再起の道をさがす中で、生来の鋭い観察眼を発揮 することができず、必死の思いで準 備に専念した製氷関係の仕事も失敗 に終わり、ようやく欠員の出ていた 歯磨き工場に就職した。その時に牧 太郎が心配して様子を見に上京し これまでの経験を生かして酒屋か綿布関係の店に奉公した方がいいのではないか、そうすれば二、三年で手 代に取り立てられる可能性がある” と忠告してくれたのである。

 

英蔵は その言葉に従う心を決め、 考えぬい てきた再起への腹案を打ち明けた。 それは、奉公をしながら高利貸を行 うことであった。 質屋と高利貸は、 不況が厳しくなればなるほど繁盛し ていた。その話を聞いた牧太郎は 「先ず奉公に出て真面目に働きだし たら、援助を考えてみよう」と言っ てくれた。

そこで英蔵は、いろいろと奉公口 をさがし、笹川屋という酒屋に雇っ てもらうことになった。 そして半月 が過ぎ“ここまで親父の言う通りに やってきたのだから、もう援助を頼 んでもいいだろう”と考え、最後の 希望をつなぐ思いで牧太郎に手紙を 書いた。しかし返事はなかなか来ず、やがて弟の角太郎から、姉のそ のが再婚し、婚礼の忙しさと出費の ために送金ができなかったとの手紙 が届いた。事情は分かったものの、 心の底から落胆した英蔵は、いたた まれない思いをこめて赤裸々に、角 太郎宛に長い手紙を書いた。 ところ がその手紙を投函した三日後に送金 があった。 依頼した額の三分の一で あったが、この際、そんなことはど うでもよく、 英蔵は、心からの感謝 の手紙を書いた。

しかし、奉公と高利貸を両立させ ながら、やっていこうとした矢先に 英蔵はまたしても金銭上のいざこざ に巻き込まれ、それは岡野家だけで なく笹川屋の主人にまで及んで、店 で働きながら高利貸をするという計 画は完全に挫折してしまった。そし て、この後、英蔵の消息は、ぷっつ りと途絶えたのである。

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