金剛さまとの出会い(俗人時代⑥)
「綿布協会時代」
日露戦争下の朝鮮への渡航。 そし て帰郷してからの綿布協会の設立と解散。 英蔵の波乱万丈の前半生は続きます。
朝鮮への渡航
玄界灘には、果てしない群青の海 が広がっていた。 英蔵は甲板に腕組みをして立っている。 彼を乗せたバベルスベルグ号の行く手には、朝鮮 の大地があった。 朝鮮では、日本と ロシアが激しい戦いを繰り広げている。英蔵は、その地に自らの未来を 託した。 東京で消息を断ってから二 カ月後のことである。
当時の東京は、新規に商売を始め るには厳しすぎた。 日露戦争の進行に伴い、経済活動は軍需産業を除いて沈滞し切っていた。そうした中で失敗を早く取り戻したいとの焦りも手伝って 、二ヵ月ほどで資金は底をついた。その頃に耳にしたのが朝鮮の話であった。朝鮮の地では一万人 以上の日本人が商売をしていて、日露戦争に勝ったら、より大きな仕事 ができるということで、 渡航する人 が後を断たないとのことである。 その話を聞いて英蔵は心を決めた。 そして明治三十七年の五月に神戸港か ら出港し、 玄界灘を渡って目的地で ある朝鮮の首都・京城に着き、 先ず 綿布を扱っている店に住み込みで働 かせてもらう話を決めた。 そうした中で、英蔵は面白い男と出会った。 軍の下働きをしている男で、 不思議 なほど気が合い、親しくなると戦況 について様々な話をしてくれた。
しばらくして、男から緊急の依頼 があった。 零下三十度から四十度に もなる満州で冬を越す日本軍のために、できる限り毛皮を集めるようにとの軍からの指示があり、それを手 手伝って伝ってほしいとのことである。「願っ てもない話だ――――」 英蔵は二つ返事でそれを受け、 第二回の旅順総攻撃の直前から仕事が始まった。
旅順では激しい戦闘が続き、第三回の総攻撃開始から十日後に日本軍 は二百三高地を占領し、旅順入城は時間の問題となった。 しかし、その 犠牲は予想をはるかに上回り、 戦闘 参加人員十三万名中、 死傷者は五万九千名、二人に一人が戦死するか傷ついたのである。 そして二度目の毛 皮の納入を行った三月一日には満州軍総司令部が「日露戦争の関ヶ原」と位置づけた奉天会戦が始まり、十 日に到って勝利を手中にした。
この報を聞いて、 英蔵は男と酒を酌み交わした。その中で男は、天涯 孤独な自分は日露戦争に勝利したら 満州に行くという話をし、帰りを待ってくれる人たちがいる英蔵には日本に帰ることを勧めた。その真心の 言葉に英蔵は黙ってうなずいた。 そ して一週間後の三月中旬、京城の駅 に立ち、見送りに来てくれた男の手 を固く握ると、もう後を振り返らず 仁川行きの列車に乗り込んだ。
帰郷
高崎線に乗り、 桶川駅に降り立っ て北本宿に向かうと、 道端の新芽が 目に鮮やかである。 英蔵が家に着いたのは、ちょうど昼食時であった。「ただいま帰りました」
その声に台所での会話が途切れ、 そして全員が駆け寄ってきた。 ひと時の興奮がおさまると英蔵は両親に 心配をかけたことを心から詫び、そ れから朝鮮での体験を話した――。
農繁期を迎えた五月下旬、予想よりも四ヵ月遅れてバルチック艦隊が 日本海に接近。満を持して待機していた連合艦隊は全艦が船腹を見せて 並ぶ「T字作戦」をもって迎え撃ち、 結果は奇跡とも言える大勝であっ た。 その後、講和の動きが急速に進んだ。
そうした中で英蔵は「農は国の礎 だ」 との信念のもとに、ひたすら農作業に専念していた。 そして、兄の 新三郎が召集解除になって帰郷する と、今後のことについて牧太郎と三 人で話し合った。 新三郎は三十二歳 になるから、もう家督を譲られても おかしくはない。ならば自分も、 そろそろ分家をしなければならない!
この件に関しては耳寄りな話が、 賃機を導入する糸口になった山崎家 からもたらされていた。 日露戦争の 勝利で朝 鮮 への 輸出を独占し 、 中国への 貿 易 も 増 大し、綿 織 物 の 需要が 急激に増えているから、 当分は賃機 をやれば確実に儲かるとのことであ る。 その話を聞いて英蔵は牧太郎の了承を得ると、以前の失敗が知れ渡っている北本宿から離れ、近隣の鴻巣で賃機を行うことにして、 明治三 十九年の始めから店を出す準備に専 念した。 日露戦争によって農家は相当に窮しており、熱心に副収入の道を求めていたから、賃機の勧誘は予想以 上に早く進んだ。 そして英蔵は鴻巣 の家に「岡野白木綿店」という看板 を掲げて本格的に仕事を始めた。
最初は好調であった。 しかし、その中で脅威となったのは、大企業が 広幅織機を導入して綿布の増産を始 めていることであり、年の後半にな ると、その影響が現れ始めた。 そして、ある時、同業者の集まりの中で、一人の男がヤケになったような口調で言った。 「せめて俺たちの店が十軒もまとまりゃあ、対抗できるかも知れねえなあ」 それだ!”と英蔵は直観した。” 一軒一軒では弱いけれど、まとまれば大きな力になる。大企業 に対抗するには、それしかない”
それから一ヵ月の間、英蔵は毎晩 のように同業者と話し合い、共同で 仕事をする道を模索した。 話はどん どん進んで、農閑期の賃機が本格的 に始まる十一月の末には「綿布協会」 を結成する初会合が鴻巣の料亭で行 われ、 十二人の同業者が集まり、 実 務の中心には発案者の英蔵を筆頭に 三人が選ばれた。
この頃、英蔵は足繁く「田本」 という料亭に通っていた。 そこには 上代アキという若い芸者がいた。 英蔵が鴻巣に出て早々に馴染みと り、心ひかれ合う仲になっていたのだが身請けの話が出て、 アキは困り果てていた。 「綿布協会」の発足は、それに対して英蔵が身請けしてやれる基盤がで きた こと を意味 していた。その話を 聞い て、ア キ は 涙 を流 して喜んだ。 しかし、すぐに鴻巣で 一緒に暮らすわけにはいかず、話し 合った結果、アキは段取りが整うま で東京の日本橋蛎殻町にある知り合 いの料亭で働くことにした。
明治三十九年の師走は、今までに なく充実していた。 そして、 正月休 みを取る暇もなく一月が過ぎ、二月 も残り少なくなった頃に綿布協会は 大きな利益を上げていた。しかし、 不安な材料もあった。 年が改まると賃機業にとって脅威となる広幅織機が猛烈な勢いで増えてゆき、やがて問屋が綿布の値段を安くしてほしいと言い始めたのである。
そして明治四十年の後半、事態は ますます悪い方に傾き、 綿布協会の 赤字は嵩んでいった。その中で今後 を決める寄り合いが十一月の中旬に 行われ、 英蔵は構成員の様子を見て 断腸の思いで肚を決めざるを得なか った。協会の解散である。
脱税事件
それから、英蔵は借金を重ねながら、綿布の輸出増大に総てを賭けて 賃機を行った。その見通しは基本的には当たっていたが、誤算だったのは大企業が輸出の増大分を独占した ことであった。そうした中で万策尽 きた明治四十一年の正月、英蔵は織 消費税を払わずに綿布を問屋に卸すことを思いついた。それには訳があった。 織物消費税は日露戦争下の非常特別税の一つであり、 本来なら戦争が終わると同時に廃止されるべきものである。 しかし政府はこれを継続し、財界は反対運動を繰り広げていた。 そうしたことから英蔵は最後の手段として織物消費税を 払わずに綿布を問屋に卸したのであ る。
一月から四月までの間に一万八十 反の霜降り木綿問屋に卸し、そのうち消費税を払わなかったのは三八四〇反、価格にして一四四円であった。それによって再出発の目処が つき始めた五月十二日の昼過ぎ、新三郎が血相を変えて鴻巣の家に飛び込んで来て「お前、何をやった!」 と怒鳴った。その後ろには二人の警官がいる。 「岡野英蔵だな」 「はい」 「脱税容疑がある。署まで同行して もらいたい」―ついに来るものが来たという感じで不思議に動揺はな かった。「お伴します」そう言うと英 蔵は警官に伴われて鴻巣の警察署に 向かった。 そして、罪はすべて背負 うとの覚悟で、素直に供述を続けた。 しかし、数日後に牧太郎が面会に来 た時は激しく動揺し、腹の底から後悔の念がほとばしった。 それは英蔵 と父親との間に、 そして岡野家との 間に、越え難い溝が生じた瞬間でも あった。
⑦へ