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金剛さまとの出会い(俗人時代①)

「明治」の 始まりの中で

はじめに

金さまが遺された解脱のみ教えには、計り知れない尊さがあります。このみ教えを学ぶ中で大切にさせていただきたいのが 「金剛さまのご生涯に触れる体験」です。そ の中で、み教えは真に生き生きと私たちの心に根付きます。直接にご指導を受けた方々がご健在の時代に「解脱金剛伝」が編纂(へんさん)されたのは、永遠にこの体験をさせていただくためであったと信じます。そこで、立教百年を眼前に控える本年度から、三年間をかけて「新版・解脱金剛伝」を基本に、金剛さまのご生涯をたどらせていただきます。

 

●金剛さまのお名前は「新版・解説金剛伝」 に準じて、人時代を記す本年度は、こ 本名の「英威」、立教以後は「金剛さま」 と表記させていただきます。

●本年度の内容は、直接、み教えに結びつくものではありません。しかし当時の平均寿命から言えば一生分に近い俗人時代が存在したという事実は、この時代が金剛さまのみ教えにとって掛けがえのない意味を持つことを物語っていると拝察いたします。それ故に一つひとつのご事績を大切に辿らせていただく気持ちで読み進まれることを願います。

 

 

プロローグ/明治という時代

それは、金剛さまが「太神(おおがみ)を世に出せ」とのご啓示によって立教を決意された翌年、すなわち解脱会の礎(いしずえ)が生まれつつあった昭和五年の暮れのことである。当時は月に一、二度、二十人ほどの人々が金剛さまのもとに集まって学ぶ形が整いつつあった。そこで、そろそろ集まりに名前をつけようということになり、代表的な数名が顔をそろえて、いろいろと意見を出し合った。その時、金剛さまは「わしも、皆んなも、そろって明治生まれだから、明治会にしたらどうだろう」と提案され、一同も異存がなく、そうすることに決まった。ところが調べてみると、明治会という集まりは他にもあることが分かった。そこで改めて話し合った時、ご舎弟の諸橋章介氏が「兄さんは『最高道徳之格言』という小冊子の中で「解脱」という言葉を使っている。これは、いい言葉だから、解脱会という名前にしたらどうでしょう」と発言した。集まった人々は、口々に「それはいい」と賛同の声を上げた。これに対して金剛さまは「解脱といえば大変な境地だからなあ」と首をひねりながら、しばらく考えておられたが、やがて意を決したように顔を上げ「それを目標に精進してゆくことにすればいいだろう」と言われ、ここに本会の名称が決まった。そして金剛さまは、この時から解脱会会長として「会長先生」と呼ばれるようになり、集まりに参加する人々は 「解脱会会員」ということになった。

 

金剛さまが、本会の名前を「明治会」にしようと提案された背景には 「わしも、皆んなも、そろって明治生まれだから…」という以上の意味が籠もっていたと拝察させていただく。それは立教のご精神に直結する、次のお言葉からも受け取らせていただくことができる。「(日本の)国はこれ神国であり、道はこれ惟神(かんながら)の大道(だいどう)で、国主はこれ神皇である、大祖は天照大神である。 我等は真にこの民族である。(中略) 惟神の道とは、神それ自身の道であり、天照大神の直系であらせられる、 現人神、天津日嗣天皇陛下(あまつひつぎてんのうへいか)、神それ御自身が行なわせ給う統治の大道であります」

 

これは金剛さまの絶対のご信念であり、そして、その新たな出発点が 明治という時代にあった。金剛さまが本会の名称を明治会としようと提案された背景には、このような御心があったと拝察させていただく。

 

 

岡野御本家

明治という新しい時代の幕が上がり、日本が国のすがたを整え始めてから、十四年の歳月が過ぎていた。

金剛さまが生誕されたこの年までの日本の歩みは、その大いなる始まりを告げる激流のような時であった。黒船来航に始まり、それに続く日米修好通商条約調印、大政奉還、王政復古の大号令、五箇条の御誓文公布、明治との改元、明治天皇の御即位の礼、東京遷都、廃藩置県。 しかし、激動の東京から中山道を十一里ほど下った所にある、埼玉県の北本宿村は、まだ江戸時代の名残ある人口三百人ほどの小さな村であった。松並木が続く中山道の両脇には五十戸ほどの藁ぶき屋根の家が並び、背後にはくぬぎやかし、楢などの雑木林が続き、林に囲まれるようにして畑地がある。小高い丘からは秩父や奥多摩の連山が、そして遠くに富士山が見える。

北本宿村という地名は、この村が江戸から碓氷峠を越えて諏訪湖に近い草津へと走る、中山道の宿場であったことを示している。しかしそれは遠い戦国時代のことで、徳川時代へと移る慶長年間に宿場は一里ほど離れた鴻巣へと移され、以来、北本宿は石高六十石余の小さな農村となった。村人たちは武蔵野の雑木林を切り開いて畑を作り、麦を中心とした作物を栽培して生計を立てていた。

この北本宿村の鴻巣寄りの村境には、中山道の東側に村の氏神様である天満天神社と宝塔山多門寺があり、西側には農家が立ち並んでいた。その五軒目に、代々、土地の名主をつとめてきた岡野家があった。皇女和宮(こうじょかずのみや)が下向した時に作られた精密な村の見取り図には、表間口九間半、畳三十二畳と記されており、北本宿村で最も大きな家の一つであった。

名主は江戸時代の村役人の中で最も重要な役目を持っており、大百姓であるとともに人格や農業の力量等を備えていなければ役目を全うできなかった。特に北本宿村は水利が悪く、当時、最も重要視された水田は皆無に近く、農作物は江戸末期まで麦が主であったから、この北本宿村で名主を務めるのは水田に恵まれた村よりもはるかに大変なことであった。

 

また、農作業を熟知しただけでは村人たちを動かすことはできない。そのためには人の心の機微に通じ、思いやりの情を持ち、生活万般の相談相手となることが必要であり、名主は、こうした指導力があって初めて役目を全うすることができた。

岡野家の代々の当主で、その人柄が具体的に分かるのは、英蔵の曽祖父である進右衛門からである。進右衛門は豪放磊落で義侠心に厚く、村人の信望を集めていた。しかし晩年にさしかかった頃、村の境界線に関する争いが始まり、進右衛門は名主として訴訟の当事者になった。当時は、お上に訴える費用が並大抵ではなく、家が潰れると言われていた。進右衛門はそのことを充分に承知していたが、名主としての役目を全うすることに専念し、その結果一里四方は他人の土地を踏まないでも歩ける。と言われた岡野家の土地を大きく減らしてしまった。その痛恨の思いを込めて進右衛門は次のような遺言を遺した。「自分の代に失ったものを元に戻せなかったことは、ご先祖さまに対して申し訳ない。わしが死んだら上下に袴をつけて座棺(座った姿勢で納めるように作った棺)にして埋葬してくれ。十三回忌までには必ず財産を元に戻してみせる」

 

この進右衛門の跡を継いで、江戸時代から明治時代へと移る激動の時期を生きたのが、英蔵の祖父である彦四郎であった。彦四郎は温厚で誠実な人柄で、明治七年からは北本宿を含む四ヵ村の副戸長に選ばれた。また機織りを手広く行うという新機軸を打ち出している。

この彦四郎の跡を継ぎ、明治十七年に家督を譲り受けたのが、英蔵の父親の牧太郎であった。

牧太郎の生き方を決定したのは、母親のゆうから伝えられた進右衛門の血を吐くような遺言であった。牧太郎は母の言葉を胸に刻み、「自分は岡野家の中興の祖になる」と言い続けながら生きた。そして、十九の歳の時に、近隣の馬室村から、きせ(当時十八成)を迎えて結婚し、父母の期待通りの働きをした。その中で特筆すべきは、明治に入って急速に農村に浸透した商品経済への対応力であり、「賃機」という方式を取り入れ て綿織物の仲介業を始めている。

 

御生誕

明治十四年十一月二十八日、この 岡野家に、牧太郎(当時三十歳)きせ(当時二十九歳)の第五子として男の子が誕生し、産後七日目の「お七夜」に「岡野英蔵」と名付けられた。

生まれて三十二日目の初宮参りの後、きせは真新しい産着を着せた英蔵を連れて実家の大島家に里帰りした。その時に大島家を訪問した旅の修験僧が、英蔵の手相を見て「この子は素晴らしい手相をしている。こういう手相をしている子は意志が大変強く、将来、大物になります」と告げた。この件は、居合わせた人たちの心に強く残った様子で、後々まで語り伝えられることになる。

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