金剛さまとの出会い(俗人時代③)
「憧れ」が 芽生える時
「あばてい」英蔵
大河の流れも、巡りゆけば必ず源流へと到る。人生もまた同じだと言えよう。そして、英蔵の人生の源流として大切なのが、その小学生時代である。
英蔵は明治二十一年、八歳の時に岡野家から二キロほど離れた「第四十三学区・山中学校」という小学校に入学した。英蔵が入学する二年前まで、小学校は岡野家と中山道を挟んで向かい側の多聞寺にあり「楳林学校」と呼ばれていた。しかし、明治十七年に北本宿村を含む九ヵ村が東間村連合という自治体を形づくると、小学校は統合され、同二十年に木造瓦葺きで五つの教室を持つ山中学校が開設された。
それから一年後、この山中学校に入学した英蔵は際立って元気がよく、友達と遊ぶ時はいつも仲間を引き連れて中心的な役割を演じた。そして、いつしか同級生から“あばてい″と呼ばれるようになった。あばていとは、暴れん坊のていちゃんという意味であり、英蔵は仲間うちでは「ていちゃん」で通っていたので、そのように呼ばれた。要するに「ガキ大将」である。
学校から帰ると毎日のように仲間を集めては雑木林を駆けめぐって遊んでいたから、着物を破くことなど、しょっちゅうである。そんな時は必ず隣の家に寄り、そこのお婆さんに、ほころびを繕ってもらったという。破れたままの姿で家に帰ろうものなら父親にこっぴどく叱られたからである。着物を繕ってもらうと英蔵はペコリと頭を下げて礼を言い、帯を締め直して家に帰った。乱暴者だけれど、どこか憎めないところがある、英蔵はそうした不思議な魅力を持つ少年だった。そうした中で、今に語り伝えられている次のような出来事があった。
「仁王」が出てきた
英蔵が十歳の頃のことである。タ食が終わって、くつろいでいると、 次然、父・牧太郎に呼ばれ「多聞寺へ行って桑の番をして来い」と言いつけられた。当時は盛んに養蚕を行っており、特に上族前(蚕に繭を作らせるために容器に入れる)になると蚕は旺盛な食欲を見せるため、朝はまだ暗いうちに桑葉を補充してやらねばならず、前日の夕方に採ったものを多聞寺の縁側に置いておいた。しかし、それが夜中に盗まれることが何度かあったので、牧太郎は英蔵に番のを命じたのである。
家族たちは、それを聞いて心配した。多聞寺は岡野家のすぐそばにあるとはいえ、鬱蒼とした大木に囲まれており、まわりには墓地もある。 それに万一、桑盗人が来たら、十歳の少年にどうしろというのだろう。 母親を始めとして家族たちは、やめてほしいと頼んだが、牧太郎は聞き入れなかった。あばてい英蔵を このあたりで少しこらしめてやろうという気持ちがあったのである。
英蔵は家族の心配をよそに、平気な顔をして出掛けて行った。そして 朝早く眠そうに眼をこすりながら元気に帰って来て、心配していた家族たちが「大丈夫だったか」と口々に 聞くと「夜中に仁王が出てきたので、屈をひっかけて、匂うか! と言ってやった」と言ってのけた。この「仁王と匂うをかけた洒落」には牧太郎も舌を巻いた。こうした英蔵の豪胆さを伝える話は、多聞寺での肝試し等、枚挙に暇がない。
「憧れ」の誕生
英蔵が小学校の尋常科に通っていた四年間に、日本は大きな転換点にさしかかっていた。「大日本帝国憲法」が公布され、第一回の衆議院員選挙や、市町村制の公布等も行われて、北本宿村は埼玉県北足立郡中丸村大字北本宿となった。
そして、英蔵が尋常科の最上級生であった明治二十五年の元日のことである。
当時は、宮中で行われる「四方拝」に合わせて学校や官庁でも「祝典式」が行われていた。しかしこの年の行事には、いつもと違う緊張感が漂っていた。
式場になる教室に入ると、正面に生徒たちが生まれて初めて拝する天皇・皇后両陛下の肖像写真が掲げられている。そして正面の壇上には黒塗りの盆に乗った、天皇陛下から下賜された教育勅語が入った桐の箱があった。式が始まると、先ず御真影に拝礼した後、正装した校長が壇上に進み、うやうやしく桐の箱を開いて中から巻物を取り出し、教育勅語の奉読が始まった。そこには言い知れぬ緊張感が漲っていた。
松沢校長は一本筋の通った気骨を持っており、あばていと呼ばれた英歳ですら校長の前では小さくなっていた。その校長先生が、あんなに緊張している、英意は不思議な感覚に支配されていた。
そうした中で英歳は尋常小学校を卒業し、高等科へと進んだ。当時、高等科へと進めるのは十人に一人くらいの割合であった。英蔵は勉強好きとは言えなかったが、教科によっては深い興味を持って学んだ。「修身」の時間には「教育勅語」に示されている十四の徳目を中心に授業が行われた。例えば第一課の「父母の恩」においては、「父母から生命を受けた恩」「深い慈愛の中で慈しみ育てられた恩」についての解説があり、その末尾には「父母の恩は山よりも高く、海よりも深し」という格言が載せられている。
英蔵は修身の時間を楽しみにしていた。例えば孝行について記されている箇所は、岡野家の中興の祖となることを目指す牧太郎の生き方や 「頭が下がるほど、よくやってくれている」と常に言う祖父母の言葉と重ね合わせるとよく分かる。そして自分もまた、そうありたい。という望みが芽生えていった。
更に「一つひとつの徳を身につけて人格を高め、国のために貢献できる人物となり、天地と同様に永遠なる天皇陛下の治世をたすけねばなら ない」という結びの部分には胸が熱 くなり「自分も、そういう人間に なりたい」という心が生まれ育っていった。また、英蔵の憧れを大きく膨らませたのが歴史と地理の勉強であった。
歴史の教科書では、神武天皇が橿原の宮で即位された「上世紀」の項から勉強が始まり、特に仁徳天皇の「民は国の本なり。民の富めるは、朕の富めるなり」とのお言葉は、その御事績と相まって深く心を打ち、それが今は明治天皇の御心として在るとのことを学ぶ中で、天皇陛下と自分をつなぐ一本の糸が、はっきりと見える気がした。
また、英蔵が大きな興味を持って 学んだのが「世界地理」であった。「萬国地理初歩」と題する教科書には、初めて見る世界地図が載っていた。南北九百余里と教えられた日本が、東半球図の右すみに小さく描かれている。図の中央にはアジア・ヨーロッパ・アフリカなどの広大な大陸が広がり、西半球には南北に長いアメリカ大陸がある。これが世界だ 英蔵は、そう感じた。
そして、この教科書はともかく面白かった。冒頭に「余は是より、諸君を率いて、海外に周遊せん」と記され、その通りに世界漫遊。という形式で書かれていたからである。 また二~三頁に一枚の割で描かれている世界各地の風物が、初めて触れる感動と共に、まだ見ぬ国へと誘ってくれた。富士山の二倍以上もの高さの山々が連なるヒマラヤ山脈、日本の何十倍もの広さが砂に覆われているサハラ砂漠、見たこともない南方の動物 また特に、日本より小さな島国でありながら地球上の陸 地の六分の一はその領土であると言われる世界を股に掛けた大英帝国の姿に、英蔵は強い憧れを持ち、七つの大洋を駆けめぐる自らの姿を遥かに夢見ていた。
現在の小学五・六年生にあたる高等科の二年間は、こうして英蔵の心に様々な憧れや夢を育んでいった。けれども、それは英蔵の内面における事柄であり、外見はまだあばていそのものであったから、高等科二年を終えようとする頃、牧太郎は 学校を続けさせるかどうかを考えた。どう見ても英蔵は学問で身を立ててゆくようには見えない。ならば、少しでも早く仕事を身につけさせた方がいい。それには奉公に出すのが一番だ。牧太郎はいろいろ思案した末に、そう結論を出した。